泉涌寺 雲龍院

泉涌寺 雲龍院

御寺泉涌寺

泉涌寺(雲龍院)を拝観しました。

山号

東山(とうざん)、泉山(せんざん)

宗派

真言宗泉涌寺派

寺格

総本山

本尊

釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来

創建

856年(伝・斉衡3年)

開基

伝・神修上人

別名

御寺(みてら)

概略

月輪山のふもとにたたずむ泉涌寺は東山三十六峯のひとつです。皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が瓦葺の屋根を連ね、幽閑脱俗の仙境、清浄無垢(せいじょうむく)の法城となっています。当寺は天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名されました。1218年(建保6年)に当寺が開山と仰ぐ、月輪大師(がつりんだいし)・俊芿(しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、1226年(嘉禄2年)に主要伽藍の完成をみました。その時、当寺の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めました。この泉は今も枯れることなく涌き続けています。大師は肥後国(熊本県)に生まれ、若くして仏門に入り、真俊大徳に師事して修学、大志をもって求法のため、1199年(正治元年)中国の宋に渡り、滞在12年、顕密両乗の蘊奥(うんおう)を究めて、1211年(建暦元年)帰国しました。宋から多くの文物をもたらし、伽藍はすべて宋風に作られました。帰国後は泉涌寺において戒律の復興をはかり律の基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場とし、北京律の祖と仰がれました。当時、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時も月輪大師について受戒するなど、公家・武家両面から深く帰依されました。大師入滅後も皇室の当寺に対する御帰依は篤く、1242年(仁治3年)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山陵が当寺に造営されました。その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山陵境内に設けられて『月輪陵(つきのわのみさぎ)』と名づけられました。こうして当山は皇室の御香華院(ごこうげいん)として長く篤い信仰を集めることとなりました。泉涌寺が『御寺(みてら)』と呼ばれる所以であります。総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が瓦葺の屋根を連ねています。 全山木々に包まれて静かにたたづむ堂宇、玉砂利の境内は、春は新緑、秋は紅葉に色どられて、一種別天地の雰囲気をかもしだしています。

歴史

仁和寺、大覚寺などとともに皇室ゆかりの寺院のひとつで知られています。伝承によれば856年(斉衡3年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創しています。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めました。なお『続日本後紀』によれば藤原緒嗣は843年(承和10年)に没していますので、伝承によれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されました。別の伝承には開創者を空海とする説があります。空海が天長年間(824~834)に、この地に草創した法輪寺が起源であり、855年(斉衡2年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものです。また、空海による草創年代を807年(大同2年)と伝承する説もあり、この寺院が後の今熊野観音となったともいいます。以上の伝承を総合しますと、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたものを鎌倉時代に再興したものと思われます。鎌倉時代の1218年(建保6年)、宇都宮信房が荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進し、多くの人々の寄付を得て大伽藍を造営し、霊泉が湧いていたので寺号を泉涌寺としましたといいます。泉涌寺は律を中心として天台・真言・禅・浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えました。1224年(貞応3年)には後堀川天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれこの頃から皇室と結びつきが強くなりました。江戸時代には後水尾天皇以下、幕末の孝明天皇にいたる歴代天皇が山内に葬られています。応仁の乱による焼失をはじめ、諸堂はたびたび火災で焼失しており現在の堂宇は近世以降の再建です。

伽藍

醍醐寺が管理する建物は、平安朝から江戸時代までを数えると90に棟数におよび、国宝六棟や重要文化五棟が含まれています。一山が賑わった鎌倉時代から室町時代までにおよぶ伝承は、山上に27院、山下に60余院が存在したようです。現存建造物内には、絵画類国宝22点、重文46点、彫刻国宝3点、重文19点、経巻・文書類国宝5点、重文6261点、工芸品重文12点、他未指定絵画や醍醐古文多数が現存しています。醍醐寺の伽藍は下醍醐と上醍醐で隔てられ徒歩では1時間を要します。

大門

慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築した四脚門で重要文化財です。

仏殿

大門から参道を下って正面の仏殿は1668年(寛文8年)徳川家綱によって再建され、現存伽藍の多くはこの時に整備されています。仏殿は一重もこし付入母屋造り本瓦葺き唐様建築の代表作で重要文化財であります。仏殿内陣に向かって左から運慶作と伝えられる阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三尊仏が安置されています。南宋の諸寺にならったもので、過去・現在・未来の三世にわたって人類の安泰と幸福を守り、永遠の平安を願う人々の信仰を集めています。堂内の鏡天井には『雲龍図』、本尊背後の『飛天図』、裏壁の『白衣観音図』は狩野探幽筆です。なお、堂内左右奥に祖師堂と土地堂を配しているのは中国の南宋様式です。

舎利殿

仏殿の背後に建つ釈迦の仏牙舎利を奉安する貴重な霊殿であります。慶長年間に京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移されました。開山俊芿律師が熱願された舎利を弟子湛海律師が2度目の渡来で1255年(建長7年)に将来遷座しました。現在、同時に将来された韋駄天像・月蓋(がつがい)長者像とともに安置していてともに重要文化財です。舎利殿は謡曲『舎利』の舞台としても名高いです。天井には狩野山雪筆の『雲龍図』が描かれ『鳴龍』としても知られている。うち内陣左右の板壁に描かれた十六羅漢像は第六代・木村了琢の筆で1668年(寛文8年)に完成しました。

霊明殿

現在の建物は1882年(明治15年)10月炎上の後、1884年(明治17年)明治天皇によって再建された尊牌殿で、入母屋造り桧皮葺き、概観は辰殿風の建物です。すべて尾州桧材で造られ殿内西廂(ひさし)は板間で、殿内は内陣・中陣・外陣に分かれ、内陣は五室の宮殿造りであります。それぞれに御扉を設け、中央御扉内には四条天皇御尊像(木造)と御尊牌をはじめ、明治天皇、正憲皇太后、貞明皇后、昭和天皇、香淳皇后の御真影、御尊牌が奉安され、それ以前の天皇、皇妃、親王方の御尊牌は左右の御扉内に奉安されています。

御座所

1882年(明治15年)霊明殿炎上とともに庫裏、書院も焼失しました。明治天皇は、霊明殿の再建と併行して京都御所内にある皇后宮の御里御殿を移すことになり、この建物は1818年(文化15年)に造営されたものです。御殿は西に御車寄があり、これに続く一棟は六室にわかれ南側は西から侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側は西から女官の間、門跡の間、皇族の間と呼んでいます。南側玉座の間は一段高くなっていまして、特徴ある違い棚が備えられ、障壁の端鳥花弁図は狩野永岳筆であります。東北の室はかって皇后御産の間であったところで、すべての部屋の襖はいろいろな主題の絵が描かれ、附属建物の襖絵と合わせて、宮廷生活の一端がしのばれます。なお、御座所は両陛下はじめ皇族方の御陵御参詣の御休所として現在も使用されています。

御座所庭園

御座所の東南から御殿の南側にかけて小さな御庭があります。零明殿、御座所、海会堂、御陵拝所に取り囲まれた御庭は小さいですが、無比の環境の中に自然と人工を織りまぜています。低い築山のすそに曲折する池のなぎさ、ひかえめに咲くサツキ、真紅の紅葉、薄っすらと雪化粧した雪見灯篭にはえる梅など四季折々を楽しませてくれます。

海会堂

京都御所内の御黒戸を移築したもので、歴代天皇、皇后、皇族方の御稔持仏30数対が祀られています。方形土蔵造り塗り込め御堂で、外面は白壁塗り、床は高く、屋根は宝形造り本瓦葺きであります。内陣に安置される御厨子入りの御仏体は大小さまざまで、各時代の代表的仏師が彫像したもので、いずれも素晴らしい御像であります。この御堂の本尊は阿弥陀如来であります。

楊貴妃観音堂

大門を入った左手の奥まったところに立っています。中国南宋時代の作である観音菩薩坐像(通称楊貴妃観音)を安置しています。観音堂内、六羅漢像の中央に安置されている聖観音像で、湛海が1255年(建長7年)持ち帰りました。

泉涌水屋形

寺名の起源となった名水が今も尽きることなく湧き出ています。

浴室

1897年(明治30年)現在地へ移建され、寛文期再興の建物であります。

月輪陵

霊明殿の東にしずまる陵墓は月輪陵と呼ばれます。四条天皇をはじめ後水尾天皇から仁孝天皇まで25陵、5灰塚。9墓が営まれています。ここにしずまる方々の御葬儀は泉山長老が御導師をお勤め申し上げ、御陵もすべて仏式の御石搭で祀られています。また、月輪陵の背後の山腹には、南側に孝明天皇の御月輪東山陵、北側に英照皇太后の後月輪東北陵が築かれています。

開山堂

境内の最も奥まった場所に歴代長老の墓所があり、その中央小堂内に開山俊芿無縫搭が祀られています。

文化財

国宝

俊芿が荒廃した前身寺院を『泉涌寺』と改名して再興するため人々の喜捨を募るために書いた趣意書です。泉涌寺建立の起源にもかかわる歴史上重要な文書で書道作品としても優れています。

重要文化財

  • 仏殿
  • 大門
  • 開山堂
  • 開山塔(石造無縫塔)
  • 木造観音菩薩坐像(楊貴妃観音)附:木造韋駄天立像、木造伝月蓋長者立像
  • 絹本著色道宣律師・元照律師像
  • 絹本著色俊芿律師像

その他

雲龍院

北朝の後高光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇・称光天皇をお祀りしている菩提寺です。

勅使門

山門

玄関

悟りの間

蓮華の間

龍華殿の扁額

徳川慶喜公ゆかりの石灯籠

月窓の間

大輪の間

瞑想石

龍淵のさやけし

中庭

龍淵のさやけし(水琴窟)

鐘楼

鎮守社

イラストマップ

Googleマップ

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住所

〒605-0977 京都市東山区泉涌寺山内町27 総本山 御寺 泉涌寺

TEL

TEL:075-561-1551

アクセス

JR京都駅(八条口)から、タクシーで約10分
京都駅(烏丸口)から、市バス(208)にて泉涌寺道下車、徒歩15分
東福寺駅(奈良線)から徒歩20分
京阪電車七条駅から市バス(208)にて泉涌寺道下車、徒歩25分
祇園四条駅から市バス(207)にて泉涌寺道下車、徒歩15分
東福寺駅から徒歩20分
阪急電車河原町駅下車、四条河原町バス停から市バス(207)にて泉涌寺道下車、 徒歩15分
近鉄電車京都駅(八条口)から、タクシーで約10分
京都駅(烏丸口)から、市バス(208)にて泉涌寺道下車、徒歩15分
東寺駅から、市バス(202、207、208)にて泉涌寺道下車、徒歩15分分

拝観受付/拝観料

拝観受付

3月〜11月午前9時00分~午後4時30分 (閉門午後5時00分) 
12月〜2月午前9時00分~午後4時00分 (閉門午後4時30分)

拝観料

伽藍拝観 大人 500円 /子供 300円(小中学生)
特別拝観 大人 500円(中学生以上)
伽藍拝観でご覧いただける施設大門 仏殿 楊貴妃観音堂 泉涌水屋形 舎利殿 心照殿
特別拝観でご覧いただける施設御座所 御座所庭園 海会堂

雲龍院の拝観【案内】

拝観時間午前9時〜午後5時(午後4時30分受付終了)
拝観休止日毎週水曜日(整え日として拝観を休止させていただきます)
※但し11月を除く
拝観料お一人様400円
※本山泉涌寺とは拝観料は別となります。
所在地〒605-0977 京都府京都市東山区泉涌寺山内町36
駐車場泉涌寺駐車場をご利用ください(無料)
拝観休止日1月の成人の日(泉山七福神巡り開催のため)
2月18日(如周僧正法要献茶式)
4月27日(如法写経会法要)
6月27日(開山忌法要)
9月中秋の頃(お月見の会)
12月23日(ひと文字写経)
11月を除く毎週水曜日(整え日)
上記以外でも一般の方の拝観を休止させていただく場合がございます。

ホームページ

【公式】皇室御香華院 御寺 泉涌寺 – 京都東山 御寺 泉涌寺の公式WEBサイトです

これらの記事は、2023京都SKYシニア大学『京都見聞コース』の資料を参考に記事を掲載しています。

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