光秀最期の勝龍寺城、恵解山古墳を訪ねて

光秀最期の勝龍寺城、恵解山古墳を訪ねて

案内コース

勝龍寺城~勝龍寺~恵解山(いげのやま)古墳

おさんぽ長岡京
長岡京市の名称・史跡

神足館(こうたりやかた)跡石碑~土塁(どるい)空堀(からぼり)~勝龍寺城公園(ガラシャ・忠興(ただおき)の銅像 隅櫓(すみやぐら) 北門光秀出陣テラス 資料館等)

 神足遺跡
神足神社
土塁の構造
西国街道

②勝龍寺

恵解山(いげのやま)古墳

神足館(こうたりやかた)は江戸時代の初頭、1633年に徳川秀忠(ひでただ)の側近の永井直清(すなきよ)が勝龍寺城を(たまわ)るが城は痛みがひどく、洪水で水がつき修理困難とされ、城の北隣に新城を築く、ただし天守(てんしゅ)もなく城壁もなく「(やかた)」に近いものであった。

勝龍寺城

勝龍寺城公園は、今から約450年前の戦国時代末期、織田信長の家臣細川藤孝(ふじたか)が大改修を行った勝龍寺城跡に整備されています。

乙訓(おとくに)・西岡地域において最も重要な城であっただけでなく、藤孝(ふじたか)古今(こきん)伝授や山崎合戦の舞台ともなった貴重な歴史遺産でもあります。特に、2020年( 令和2年) NHK大河ドラマ 「麒麟がくる」 が放映(主人公・明智光秀)されて注目を集めました。

勝龍寺城土塁・空堀跡
勝龍寺城公園と長岡京市
勝龍寺
勝龍寺城跡
本丸跡
勝龍寺公園入口
勝龍寺公園入口の橋

勝龍寺城公の沿革

  • 城郭(じょうかく)の創設・萌芽(ほうが)

1450年代 山城国守護畠山義就(はたけやまよしなり)警固(けいご)人の集合場所として勝龍寺を使用

1470年代 応仁文明の乱で西軍畠山方が勝龍寺を陣地として使用。近隣には東軍方の拠点が存在、周辺は戦場となる

1500年代 のちに勝龍寺城の外郭(がいかく)に取り込まれる神足城(こうたりじょう)が史料に現れる

  • 地元の西岡衆と三好・松永勢の使用

1530年代 天文年間初の一揆の際に細川晴元(はるもと)方の西岡衆が勝龍寺城の日夜番(ひよばん)を努める

1550年代 三好(みよし)長慶(ながよし)の下で京都東南部の有力者が在城

1562年(永禄5年)三好が北の六角氏と南の畠山氏に挟み撃ちされ、周辺は戦場となる

1566年(永禄9年)三好没後松永久秀(ひさひで)方が籠城。その後は岩成(いわなり)友通(ともみち)が入城。

  • 織田信長の影響下で細川(長岡)藤孝(ふじたか)の時代 (石の城へ改修)

1568年(永禄11年)9月 足利(あしかが)(よし)(あき)・織田信長が入京、岩成(いわなり)友通(ともみち)を退却させる。

1569年 (永禄12年)1月 京の本圀寺(ほんこくじ)襲撃犯(しゅうげきはん)の三好方を追い西に向かった細川藤孝(ふじたか)や池田勝正らが勝龍寺城入城、以降藤孝(ふじたか)が城を使用

1571年(元亀2年)10月 織田信長が藤孝(ふじたか)に「桂川西岸から人夫を集めて勝龍寺城を普請するよう」命じる

1573年(元亀4年)7月 藤孝(ふじたか)、信長より桂川以西の支配を認められ、長岡と改姓(かいせい)

1578年(天正6年) 細川忠興(ただおき)が光秀の三女玉(ガラシャ)を迎えて婚儀を行なう

       10月  吉田兼見(かねみ)が訪れ囲碁や歌会を催す

1580年(天正8年)8月 藤孝(ふじたか)丹後(たんご)宮津城に移封(いほう)。翌年、信長の直臣(じきしん)城代(じょうだい)とされる

  • 山崎合戦 光秀の拠点の時代・・ 敗北、 脱出・・

1582年(天正10年)6月 山崎合戦。明智光秀方の拠点(きょてん)になる。

1586年(天正14年) 羽柴秀吉、藤孝(ふじたか)に対し西岡村に領地を与える。1600年頃まで藤孝(ふじたか)の家族らが利用した。

1633年(寛永10年) 永井直清(すなきよ)、城の修繕を計画したが出来ず、城の北に(現在のJR近く)神足館(こうたりやかた)を設置⇒勝龍寺城廃城

  • 発掘調査 公園化される

1988年(昭和63年) 発掘調査開始

1992年(平成4年) 公園化(長岡京市市制20周年記念事業)

2007年(平成19年) 都市公園法施行5 0周年記念「日本の歴史公園百選」

確たる築城主は不明?

後に城主となる細川藤孝(ふじたか)の正当性を強調するためなのか、細川頼春(よりはる)(北朝方・肥後熊本藩の祖)とする説もあるが不詳、むしろ1457年山城守護の畠山義就(はたけやまよしなり)警固(けいご)人夫(にんぷ)を勝龍寺近隣に集めたとされるので同氏が築城したとも推定されている。何しろ、当地では勝龍寺を中心にした戦場の(とりで)とされた存在は間違いない。戦国時代末期には淀城と共に三好・松永方の属城となった。

細川藤孝(幽斎)立身出世の城 城の改修(土塁・空堀)

近世細川家に伝わった記録『綿孝輯録(めんこうしゅうろく)』(細川家史1778年)では、城の縄張りを行なった米田(こめだ)求政(もとまさ)藤孝(ふじたか)の家老)が「従来の平城(ひらじろ)要害不堅固(ようがいふけんご)につき、城外に二重堀を設け、さらに土塁(どるい)を築いた」と記されている。城内への侵入を防ぐための堀や土塁(どるい)の一部が整備されている。既に存在していた近くの神足神社(こうたりじんじゃ)跡のものを利用したのではないかと考えられ、発掘により現存する土塁(どるい)の下から埋め戻された土塁(どるい)跡が見つかり、「横矢掛かり」になっている。特に城に向かって緩やかに低くなっている地形から、それを守るための土塁(どるい)が築造された。当時の政情は不安定で改修に要する時間は少なく迅速に行われた。西国街道や我畷(こがなわて)の幹線道に接した戦略上の重要拠点であったので、周辺の屋敷や勝龍寺もが取り込まれ、自然の要害として小畑川と犬川(いぬかわ)を利用した。

織豊系近世城郭の原点としての城⇒見せる城の出現

1571年(元亀2年) の藤孝(ふじたか)に因る改修で、 「(かわら)・石垣・礎石(そせき)建物(含殿守(てんしゅ)天守(てんしゅ)) を備えた近世的城郭(じょうかく)」 大きく変身した。 当時の 「信長朱印状」 によると改修にあたり、 桂川西側の各家から1名ずつつめて工事することを信長が許可、信長の同意・援助のもとで実施された。

城郭(じょうかく)での本格的な(かわら)や石垣の使用は1576年 (天正4年) の安土城築城が初となると考えられてきたが、 発掘調査の結果、 勝龍寺城で既に使用されていたことが確認され、史料から城史上初めての 「殿守(てんしゅ)」 の存在が判明した。出土した(かわら) 「三ツ巴文(ともえもん)軒丸瓦(のきまるがわら)」 は、 1572年に光秀が築いた坂本城 (大津市) や佐々成政(ささなりまさ)による

小丸城(こまるじょう) (福井県越前市) と同じ型で作られたもので、 信長の居所(いどころ)であった旧本能寺(京都市) と同じ系統の(かわら)が使われたことがわかっている。 いずれも信長配下の城・寺院であり、 個々の大名たちが(かわら)職人を掌握(しょうあく)していない段階で、 信長の瓦師(かわらし)(つか)わして焼かせたものである。

土塁(どるい)で囲った城と見られていたが、土塁(どるい)の下半部分が石垣によって築かれていて「はち巻石垣」が判明した。堀底(ほりそこ)胴木(どうぎ)基底(きてい)部下に松板を敷く)が残存、石垣は破壊されて持ち運ばれたか不明だが、栗石(くりいし)が残り排水も工夫されていた。近世初期に淀城に持ち去られた伝承や破城されたとも言われる。石垣は自然石と石造物転用(石仏(せきぶつ)五輪塔(ごりんとう)等)で積み上げた「野面(のづら)()み」で、墓石の利用は、罰当たりよりも軍事的な建造が優先された。

城内には多数の建物があったと(うかが)い知れ、『京都御所東山御文庫記録』は、1574 年(天正2年) 6月に藤孝(ふじたか)が勝龍寺「殿守(てんしゅ)」において、三条西実澄(さねずみ)より古今集切紙(こきんしゅうきりがみ)を伝授されたと記している。又、連歌や囲碁の会、そして忠興(ただおき)と光秀娘玉との婚礼がおこなわれており、それなりの催事(さいじ)に要した建物が備えられていたと考える。

本丸西(ほんまるにし)土塁(どるい)南張出(みなみはりだし)から出土された(やぐら)の土台石垣は、「殿守(てんしゅ)」=天守(てんしゅ)と想像される。尚、現在、熊本市の水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)に建つ「古今(こきん)伝授の間」は、後に藤孝(ふじたか)八条宮智仁新王(はちじょうのみやとしひとしんのう)古今(こきん)伝授を行なった建物で、明治まで長岡天満宮にあり、天満宮の境内には、往時(おうじ)(しぬ)ぶ石碑が建てられている。

東辺土塁の石垣と井戸
北東隅櫓の石垣と階段
勝龍寺城の石造
勝龍寺の石造物
西辺土塁
北門跡
北門

細川玉お輿入れの城

1578年 (天正6年) 光秀の娘玉は、 信長のすすめにより、 藤孝(ふじたか)の長男忠興(ただおき)のもとにお輿(こし)()れした。ともに16歳のことで、城内で挙式、丹後に移封されるまでの2年間、ニ人の子宝に恵まれ、幸せな新婚生活を過ごした。

細川ガラシャ
ガラシャおもかげの水

父・光秀の謀反・苦難多受洗してガラシャに・壮絶な最期へ

幸せな玉に苦難(くなん)をもたらしたのは、1582年(天正1年)の「本能寺の変」で、藤孝(ふじたか)忠興(ただおき)は光秀からの加勢を求められるもこれに応じず、玉を離縁し、味土野(みその)(京丹後市)へ幽閉、2年間ほど子供に会う事も許されず、孤独な日々を送る悲しい日々になった。

細川忠興・ガラシャの像

1584年(天正12年)天下人となった秀吉のとりなしもあり、玉は復縁、大阪玉造(たまつくり)の細川屋敷に移り。キリシタン大名高山右近の影響を受け、キリスト教に興味を持ち、1587年(天正15年)忠興(ただおき)の九州征伐中(せいばつちゅう)に生涯一度だけ教会を訪れ、イエズス会のセスペンデスと出会い、受洗を望んだが、身分を明かさなかった為見送られた。

後日、侍女(じじょ)清原マリアの手で受洗を受け、洗礼名「ガラシャ」を授かる。関ヶ原の戦いに先立つ1600年(慶長5 年)7月、石田三成は、大阪在住の家康方を人質にしようと(たくら)み、細川屋敷を包囲したが、これを拒んだガラシャは家老の介錯(かいしゃく)によりわずか38歳の短い生涯で自害、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の花も花なれ 人も人なれ」という辞世の句をこの時に残した。毎年11月第二日曜には、ガラシャはじめ歴史上人物に扮した文化行列「ガラシャ祭」が長岡京市中心域から城まで行なわれている。

山崎合戦に敗北そして光秀・最期の城に・・・

「変」からわずか11日後に、光秀は最期の夜を過ごすことになる。6日後に藤孝(ふじたか)忠興(ただおき)父子(ふし)に協力を求めるも、信長への弔意(ちょうい)を表わすばかりで、味方になることはなく、孤立。その間、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉は、信長の死を知ると毛利と講和し、光秀打倒の為にいわゆる「中国大返し」を成し遂げ、山崎合戦の火ぶたが切って落とされ、6月1 3日(さる)の時(午後3時過ぎ)、小泉川を挟んで、秀吉方4万光秀方1.6万という圧倒的な兵力の差で、短時間での敗北を余儀なくされた。光秀が本陣を置いたとされる古墳の一つが「恵解山古墳(いけのやまこふん)」で、史跡公園として整備される際に、墳丘上(ふんきゅうじょう)を曲線状に改変した跡や破裂した鉄砲の鉛弾(なまりだん)などが出土している。

山崎合戦と勝龍寺

直ちに、光秀は勝龍寺城に退却、夜中のうちに城を脱出、坂本城に向かう途上、伏見小栗栖(おぐりす)(やぶ)で討たれ絶命。尚、脱出したと伝わる城の北門には当時の門跡(もんぜき)礎石(そせき)や石垣が残る。本図は、1665年(寛文(かんぶん)5年)製作の絵図をもとに、 1892年(明治25年)の地図を使用して作成しました。光秀軍は西国街道沿いの下植野(しもうえの)反岡(そりおか)の間に市陣し、 光秀本陣は恵解山(いけのやま)古墳付近に描かれています。境野(さかいの)1号(ふん)付近は津田信舂(つだのぶはる)の陣としています。一方秀吉軍は、小泉川沿いの西国街道と久我畷(こがなわて)付近で先鋒が対峙(たいじ)し、本隊は後方の離宮八幡宮付近に布陣しています。また天王山麓(さんろく)の丘陵上には秀吉軍を、その眼前には、山上を目指す光秀軍の別動隊を描いていて、いわゆる天王山の戦いを表しています。

天王山

勝龍寺

勝龍寺の看板
勝龍寺石碑

真言宗。 洛西観音霊場(らくさいかんのんれいじょう)第十四番札所(ふだしょ)寺伝(てらでん)によれば、 806年 (大同元年) に帰朝した空海が長安(ちょうあん)で学んだ青龍寺(せいりゅうじ)の名をとって開山。 嵯峨天皇の頃は99坊あり広く知られた。962年第62代村上天皇の時代(応和2 年)大干ばつ、大飢饉(だいききん)の際に千観(せんかん) 上人(しょうにん)雨乞(あまご)いの効験(こうけん)によって勝龍寺と改名した。

洛西観音

勝龍寺が史料で確認されるのは鎌倉時代中期で、室町時代には守護大名が地域拠点として使用し、応仁・文明の乱が始まると西軍の畠山義就(はたけやまよしなり)方が入り軍事拠点化、その後山崎合戦の際に焼失したと伝わる。ご本尊は、鎌倉時代作の重要文化財(京都国博館に寄託(きたく))十一面観音立像(りつぞう)で、毎年8月18日の観音大祭とガラシャ祭には御開帳される。聖観音像(しょうかんのんぞう)木像菩薩立像(ぼさつりつぞう))は鎌倉時代の慶派仏師(けいはぶっし)が手掛けたと言われ、宝珠(ほうじゅ)胸前(むなさき)に持つ珍しい菩薩像で令和3年府指定文化財に指定され、持国天像(じこくてんぞう)多聞天像(やもんてんぞう)は市指定文化財となっている。1319年(元応元年)鋳造(ちゅうぞう)された鐘が大坂夏の陣の際に持ち去られ、現在大阪府能勢町の真如寺(しんにょじ)にあり、大阪府の指定文化財となっている。二代目の鐘は第二次大戦時に供出(きょうしゅつ)命が出て、現在あるのは、1997年 (昭和52年)檀信徒の浄財で作られたものです。「賓頭盧(びんずる)尊者(そんじゃ)」が本堂脇にあり、「ボケ封じ観音」は近畿十楽観音霊場として有名で、神仏(しんぶつ)習合(しゅうごう)名残(なごり)から境内に春日神社が残ります。

勝龍寺の鐘
ぼけ封じ観音
修行大師像
春日神社の看板
春日神社

恵解山古墳

恵解山古墳

古墳は地上に盛り土した墳墓(ふんぼ)で、古代の貴族や豪族など身分の高い人・権力者の墓として築かれたもので、世界中にあり、日本では3世紀半ば~7世紀のものが多いそうです。その外形から円墳(えんぷん)方墳(ほうふん)前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)などがあり、兵庫県・千葉県に 多く、京都府は5番目に多い。恵解山古墳(いげのやまこふん)は、古墳時代中期(1600年前)に作られ、当時は石が敷かれて埴輪(はにわ)が並べられていた人工的建造物であった。大正13年考古学者梅原(うめはら)末治(すえはる)氏の調査で初見(しょけん)され、平成25年頃までに発掘・復元されて公園化したものです。調査開始は1980年(昭和55年)翌年、国の史跡指定を受け、2014年(平成26年)に史跡公園として整備された。恵解山古墳(いげのやまこふん)前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、国内最大の「大仙(だいせん)古墳(こふん)伝仁徳天皇陵(でんにんとくてんのうりょう))」(令和元年7月世界遺産指定)と同型。周濠(しゅうごう)の中に錠前(じょうまえ)のような形で、史跡「乙訓(おとくに)古墳群(こふんぐん)」の11基の一つで乙訓最大でもある。そもそも、桂川の右岸(京都市西京区(にしきょうく)向日市(むこうし)長岡京市(ながおかきょうし))は淀川と畿内から山陰方面につながる重要ルートにあり、ヤマト政権との交流もある交通の要衝地(ようしょうち)です。従って、古墳時代の遺跡が多数みられる地域でもあります。

恵解山古墳公園の看板
史跡 恵解山古墳
史跡 恵解山古墳の概要

強大な権力者の墓

被葬者(ひそうしゃ)は特定できていないが、5世紀前半に桂川右岸(乙訓(おとくに))を治めた王の墓ではない かと考えられている。その頃の日本は政治再編や権力交替が行なわれた時期とされ、奈良県東南部に多く作られた古墳は、奈良北部・大阪へ移り、桂川の右岸(京都市西京区(にしきょうく)向日市(むこうし)長岡京市(ながおかきょうし))は、淀川と畿内から山陰方面につながる重要ルートにあり、ヤマト政権との交流もある交易上の重要な位置であった。南北全長約128mで乙訓(おとくに)最大で、後円部の高さは10.4m、前方部幅は78.6m。 (大仙(だいせん)古墳(こふん)は全長486m、前方部幅は654m、周濠(しゅうごう)含む長さは840mと国内最大)外側の周濠(しゅうごう)部には、幅30mの周濠(しゅうごう)で囲んでいる。現在水はありません。3段に築かれ、斜面は砂岩(さがん)やチャート等の川原石で葺石(ふきいし)埴輪(はにわ)が見える。約600の円筒・人物や動物、鳥などの埴輪(はにわ)が復元されている。亡骸(なきがら)をおさめた(ひつぎ)を安置する石室(せきしつ)には竪穴式(たてあなしき)横穴式(よこあなしき)があるがここでは竪穴式(たてあなしき)石室(せきしつ)があったと見られる。頂上後(ちょうじょうこう)円部(えんぶ)は民間墓地になっていて中を見ることは(かな)いませんが、奈良県明日香村の「石舞台古墳(いしぶたいこふん)」や向日市の「物集女(もずめ)(くるま)(づか)古墳」は横穴式(よこあなしき)石室(せきしつ)の代表的なもので、公開時には見学が可能です。埋納(まいのう)施設には、鏡・菅玉(くだたま)勾玉(まがたま)装身具(そうしんぐ)、刀や馬具(ばぐ)などの副葬品が納められていると言われ当時の生活や技術を知ることが出来る。

各地点別の特記事項

前方部の上平坦部(かみひらたんぶ)(副葬品埋納施設)埋設された刀剣(とうけん)銃器(じゅうき)(やじり)等の農工具類が出土。約700この施設は他の古墳には無く珍しい1980年(昭和50年)に発見古墳時代に日本では製鉄技術はまだなかったのに鉄製品があるという事は相当な権力者でないと所有できないので古墳(被葬者)の力の程が推し量れる。地中1mの場所に長方形の木箱(縦6.5 m横0.8m )、太刀(たち)146・短刀(たんとう)1・(けん)11・(やり)57・矢471・ヤス状鉄製品もあり(弓矢の(やじり))などを格納。東側では農耕具多数あり

  • 後円部

石室は未発見(みはっけん)石室(せきしつ)石棺(せきかん)に使う石材はあった

  • 3段の斜面

葺石(ふきいし)は桂川や小畑川の砂岩(さがん)・チャートの川原石(かわらいし)(人頭大)各段及び頂上(ちょうじょう)平坦部(へいたんぶ)埴輪(はにわ)多数

  • 墳丘部

戦国時代の土器 (土師器(はじき)) 湯釜等) を発見、戦場で 利用された痕跡

  • 東くびれ部

くびれ部とは前方部と後円部をつなぐ部分東側の下段(かだん)平坦部(へいたんぶ)には埴輪(はにわ)列多数あり

  • 西くびれ部

上段斜面に葺石(ふきいし)火縄銃の弾6点を出土。

  • 東造り出し

造り出し部は葬送(そうそう)儀式(ぎしき)の場所(最も神聖且つ大事)被葬者=亡き王の権力を象徴する所不定形な石敷きが広がり西側より広い(東西14.5 m南北17.5m )大きな州浜状(すはまじょう)の場所で、水鳥形(みずどりがた)埴輪(はにわ)(神の使いの水鳥がたたずむ自然界を表現)が並んでいた。

  • 西造り出し

東に比べて定形に(ふき)(いし)が並んでいて狭い(東西8.5 m南北12m )四角形状取付け部分に島に見立てた入江(いりえ)です。亡き王の乗る船が着岸する場所当時の死生(しせい)(かん)を表現している所でお供え品が並んでいた。

  • 周濠

皿約3 0m幅の広く浅い堀状のもの、現世と黄泉の国を(へだ)てる役目です。今は水は無い。

  • 埴輪

列は邪悪(じゃあく)なものから被葬者を守る役目普通円筒埴輪(はにわ)(土管ようの形) ラッパ状の朝顔形(あさがおなり)埴輪(はにわ) 家形(やがた)埴輪(はにわ)壺形(つぼがた)埴輪(はにわ)など

埴輪
  • 類似した古墳

奈良市コナベ古墳 羽曳野市墓山古墳=当時の大王の墓=ヤマト王権と強いつながりのある大物権力者の古墳。

光秀の本陣があった?

山崎合戦の舞台ともなった可能性がある。当時の土器(どき)類片(るいへん)とともに火縄(ひなわ)(じゅう)鉛弾(なまりだん)が出土した。後円部(こうえんぶ)にある地元民田状(たじょう)に3段になっていることや、前方部に大きな掘り込みあることも、光秀方が古墳に陣を置いた際の造作である可能性がある。墳丘上(ふんきゅうじょう)から戦国期の土師器(はじき)(さら)白磁(はくじ)(ざら)火縄(ひなわ)(じゅう)の弾が出土。弾は大きくて重く、大半は着弾時の変形が見られる。2012年(平成24年)立命館高校建設時に校内敷地内で堀を発見、 古墳より西100mに急ごしらえの南北の空堀(からぼり) ( 68m幅4m深さ2m ) が出土、この南方600mに残る境野(さかいの)古墳(こふん)(サントリーエ場隣)に繋がる堀からは戦国期の土師器(はじき)(さかずき)()(がま)が発見されている

参考文献

長岡京市史 本文編 長岡京市史 資料編

長岡京市教育委員会 勝龍寺城関係資料集

綿孝輯録(細川家史)

京都御所東山御文庫記録

兼見卿記

織田信長朱印状 (米田家文書) ・里村紹巴書状 (橋本家文書)

古今伝授座敷模様(宮内庁書陵部)

長岡京市教育委員会(公財)市埋蔵文化財センター恵解山古墳関係資料集

大山崎歴史資料館所蔵図録

長岡京市ふるさとガイドの会 「長岡京市の史跡を訪ねて」

これらの記事は、2022京都SKYシニア大学『ガイドが魅せる京都コース』の資料を参考に記事を掲載しています。

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