伏見稲荷大社の神々
伏見稲荷大社は、その名の通り大きな神社で、その神域は東山三十六峰の最南端稲荷山全体でります。
ここには、古代より多くの神々が集い人々の信仰を集めてきた。伏見稲荷の神々を案内します。
伏見稲荷の創建は、奈良時代中期711年(和銅4年)初午の日と伝わる。全国に3 万社ある稲荷神社の総本宮で、旧社格では朝廷から奉幣がでる官幣大社であった。神階最高位の正一位にもなり、当時、伊勢神宮は天皇しか参拝できなかっ たため、多くの人々が参拝しました。
コロナ規制前だが、初詣で近畿の最多の参拝者を集め、日本を訪問する外国人が最も行きたい観光スポットである。神社本庁に属さない単立神社であります。
伝説
山城国風風土記による
秦伊呂具が餅を的にして弓を射たら、餅は白い鳥になって稲荷山の頂上に飛び去り、降り立った所に稲が生えたので祀った。子孫は伊呂具の行いを悔い、稲の生えたそばの「杉の木」を抜き、家に植えて祀り育てました。稲が成った山なので、「伊禰奈利山」と呼ばれました。しるしの杉は、初午大祭に授与される稲荷のお守りであります。秦氏は伏見稲荷の社渡来系豪族で、5世紀ごろには大陸から移住してき た族で、土木・機織・酒造の技術を持ち栄え、平安京以前から京都・近畿地方中心に有力豪族となった。朝廷に出仕し、平安京造営に深く関わったとされる。平安時代後期にはいその名は歴史の表舞台から消えていくが、有力者たちとの婚姻を勧め、名前を変えていったとも云われます。
東寺に伝わる稲荷大明神縁起による
空海は、お告げにより稲荷山の麓を訪れ龍のような顔をした荷田竜頭太と出会う。後に空海は嵯峨天皇から東寺を下賜されるが、竜頭太の顔を写した面を東寺の竈殿に祀ったと云う。これが、伏見稲荷の社家となる荷田氏との出会いで、空海は東寺造営の建材を稲荷山から調達し、稲荷社を東寺の鎮守社とした。東寺五重塔を建立した後、淳和天皇が病に倒れるが、占により稲荷山の樹を切った祟りであるとされたため、天皇は稲荷社に従五位下の神階を授けた。後に正一位にもなり、天皇の行幸も行われた。秦氏と荷田氏の私的な神社が、人々から広く信仰される神社に変貌していきました。荷田氏は、土着の豪族で、秦氏とともに稲霧社の社家のひとであります。空海の母の実家・阿刀氏との婚姻関係を持ったとされる。阿刀氏は東寺の執行職の家柄である。土着の荷田氏と、渡来系秦氏が婚姻等により結びつき、神社が繁栄、拡大していったのではないかと考えられます。
祭神<5柱>
五社相殿
①宇迦之御魂大神(主祭神/中央座)、穀物、食べ物の神
②佐田彦大神(北座)、猿田彦神のことで、交通、導きの神
③大宮能売大神(南座)、家内安全、芸事上達、市場守護の神
④田中大神(最北座)、農耕の神と考えられる。
⑤四大神(最南座)、農耕の神と考えられる。
かつて①②③の神が、稲荷山の下社・中社・上社の三社に祀られ、三社別殿だったが、応仁の乱で焼失し、3神が本殿に合祀された。さらに詳細は不明ながら、稲荷山の摂社/田中社と摂社/四大神を加えた五社相殿となった。
お山の神と本殿の神名
稲荷大神は、稲荷山に祀られた神が山麓に降りたものと伝えられる。理由は不明だが、お山の神と本殿の神名が異なる。
❶下社:白菊大神⇒宇迦之御魂大神
❷中社:青木大神⇒佐田彦大神
❸上社:末広大神⇒大宮能売大神
❹下社摂社:田中大神⇒士着の神
❺中社摂社:四大神⇒士着の神
歴史
奈良時代中期711年(和銅4年)初午の日、秦伊呂具が、稲荷山の三ケ峰に稲荷神を創祀。816年(弘仁7年) 山麓に社殿が移されたと云う。827年(天長4年)空海が東寺の鎮守社とする。908年(延喜8年)には、藤原時平の寄進により社殿が造営される。1499年(明応8年)、応仁の乱で焼失した本殿が再建される。
境内<表参道付近>
一之鳥居<稲荷鳥居/台輪鳥居>
島木と柱を台輪で繋ぐ。鳥居とは人が通り入る門。天照大神が雨岩戸に隠れた時、鶏を鳴かして気を魅いた。その鶏が止まる木から、その名がついたとも云われる。朱色は、生命力の証、魔除け(昔は永銀使用)
表参道下末社
①熊野社(重附)
江戸初期造 祭神は伊邪那美大神
②藤尾社(重附)
江戸初期造 祭神は舎人親王(日本書記を編纂、天武天皇の子)
③霊魂社
江戸時代末期 1857年(慶應3年)建立、伏見稲荷大社の特別崇敬社者(氏子以外で継続的に神社を信仰する人)等の御霊が合祀。
社家/大西家邸宅
秦氏の末商、稲荷社の神職
境内<本殿辺り>
楼門<重文>
1589年(天正17年)豊臣秀吉の再建
秀吉「命乞いの願文」が1973年(昭和48年)に発見される。病気治癒で、祈願が成就すれば「一万石奉加する」と書かれる。家光が疱瘡になった時は、 100石の祈願料であった。
随身(随神) は、楼門内の像、貴族の警護は随人と云う。
向って右側の阿形の左大臣、左の吽形の矢大臣
稲荷の狐
眷属、稲荷神の使い、白狐で姿が見えないと云う
①何故狐なのか諸説がある
- 稲を食べるネズミの天敵
- 狐の尻尾が稲の穂に似る。
- 祭神/宇迦之御魂大神の別名が「御饌津神」と云い、ケツを別漢字に当てはめ、「御狐神」となった。
- 神仏習合により、神宮寺/愛染寺の本尊が茶枳尼天で、白狐に跨る
②狐像が加えるもの
稲、巻物、鍵、玉等
本殿<重文>
五間社流造(稲荷造り) 1494年(明応3年)再建
流れ造りは、日本の全神社の60%の造り
権殿<重文>
仮殿・五間社流造、1635年(寛永12年)建立
外拝殿<重文>
内拝殿ができるまでの拝殿
擬宝珠に、1840年(天保11年)幕末とある。
釣灯篭(黄道十二星/星占いの星座)1906年(明治39年)稲垣藤兵衛寄進
本設南側の六角石灯篭
この神社で一番古い燈籠、下部(中台まで)が鎌倉時代のも、上部は昭和になってから復元。
新門辰五寄進の灯履
外拝殿北側の高さ3m程の石灯籠に嵜進者「新門辰五郎」の名が記載される。辰五郎は、徳川慶喜の警護をしていたと云われ、慶喜と行動を共にし、稲荷社に訪れたものと思われる。
東丸神社
1883年(明治16年)建立
祭神は荷田春満、江戸中期国学者。社家東羽倉家(荷田氏)
学問の神(呆気祓い守り)
伏見稲荷摂末社ではなく、独立した神社である。
山王鳥居は、明神鳥居の笠木上中央に棟柱を立て、木材を合掌形(山)に組む。
荷田春満旧邸
境外南側
ぬりこべ地蔵
土の塗り壁のお堂に地蔵菩薩が祀られる。病を「塗り込める(封じ込める)」として、病気・歯痛平癒の信仰となった。
6月4日の「むし歯予防の日」に「歯供養が営まれ、歯ブラシが参詣者に配布される。「歯痛が治りますように」とのハガキを出すだけでもご利益がるとのこと。「京都市伏見区ぬりこべ地蔵様」だけでハガキは届く。
ありのやま墓地
江戸時代までは伏見稲荷関係者専用墓地。神馬の墓もある。
お塚
小さな祠(1万基以上)の「お塚」が奉納、「お塚信仰」と呼ばれる。お山巡りの参道沿い、神社北側/南側の谷の特定の場所に建ち並ぶ。維新の廃仏毀釈で、愛染寺や神仏習合の仏が排除されことか信仰対象がなくなった信者が稲荷神に個別の別名を付け、私的な神仏習合の神として祀ったと思われる。お塚は、明治期に633基、昭和40年以降には10倍以上の7762基に急増、現在は1万基以上ある。
清めの滝
お塚信仰で、修行/潔斎のための「お滝」と呼ばれる人工滝が作られるようになった。お塚の増加とともに、お滝も増え、最盛期には25、今も1 7のお滝が現役として残る。
境内<千本鳥居~十石橋付近>
千本鳥居
日本を訪れる外国人が最も行きたい観光スポットである(世界最大の旅行サイト・トリップアドバイザー)。スピルバーグ監督の映画「SAYUR I」で主役のアジアの妖精チャンツィが神秘的な朱塗りの千本鳥居のトンネルを通るシーンが世界の人々を魅了し、人気スポットとなった。お山の鳥居を含めると3000基以上だが、千本鳥居は900基前後である。江戸時代に、商人信仰が流行り、願いがかなった(願いが通る)礼として鳥居を建てる風習が起こり、それがエスカレートしていき、山中に鳥居が立つこととなった。今は、鳥居を建てるのに場所によっては4~6年待たねばならないようである。鳥居制作は、江戸時代から伏見稲荷の建築を支えてきた長谷川官大工(長谷川工務店/現当主26代)が、鳥居制作、設置を専属で担当する。鳥居寿命約10年で、名前(会社名、個人名)が記載され、宣伝にもなる。
奥社奉排所<奥院>
お山を遥拝するところで、お山巡りの起点。
稲荷山三ケ峰はこの社殿の背後に配置する。
おもかる石
石がどのくらいの重さ想像し願いをする。持ち上げて、思ったより軽ければ、願が叶い、重ければ願いが叶わないという。
愛染寺跡寺
かつての神宮寺、本尊/茶枳尼天
参道に「宿坊愛染寺」と彫られた灯籠が残る。
稲荷社は東寺の鎮守社であるが、神仏習合的な神宮寺は無かった。しかし応仁の乱で東軍の陣となったため、徹底的に見舞われた。その後の再興には勧進僧が資金集めに活躍し、神官寺として東寺の末寺「愛染寺」ができるが、しだいに神社は経済的に愛染寺に影響され、結果的に寺の勢力が強くなり神仏習合が進んでいった。
その結果、神社側の不満が増し、社家と寺は不仲となったようで、幕末には寺側は幕府寄り、社家は勤皇寄りになったと云う。
維新の廃仏毀釈の折、神社は短期間で寺を追い出し、仏具を焼却した。
・宿所、休憩所もあり、幕末、将軍の京・大阪との往来ルートは、二条城⇔伏見街道⇔伏見港⇔大阪であり、徳川家茂は5度、慶喜は7度、愛染寺で休憩をした記録が残る。
東海道五十三次と云われるが、大阪までは五十三次と云われるが、大阪までは五十七次である54~57次:伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿
境内<階段上末社、他>
奥宮<重文>
祭神稲荷大神3神の分霊、室町期造、安土桃山期再建
かつて回廊が存在、摂社でも末社でもなく、「別格の扱いの社殿、上御殿と呼ばれた。
三社別殿だったころの由緒を持つ建物で、空海が山上から山下に移したとも云われる。
本殿⇒奥宮⇒奥社⇒お山と一直線に並んでおり、本殿、奥宮、奥社のどれをお詣りしても、お山の神を拝んでいることになる。
末社 白狐社<重文>
伏見稲荷の狐は眷属であるが、唯一狐を神として祭る。命婦専女神とも呼ばれる。
狐が逃げる穴です。
神馬舎
祭神 神馬 1938年(昭和13年)創建
玉山稲荷社
古くは宮中にあった稲荷社。東山天皇の命で崩御後、高野玉山に移り、他所を経由後、1874年(明治7年)にここに移築された。
摂社 大八嶋社
祭神 大八嶋大神
古くより社殿はなく、森が玉垣で囲まれている禁足地。
荷田氏伝では、祖先 荷田竜頭太ゆかりの神と云う。
秦氏伝では、荒神峰のお山の神を移したと云う。
大八嶋とは竈の神を意味し、秦氏の火の信仰と関係する、等。
境内<上末社(階段横末社)>
両宮社<重附>
祭神 天照皇大神・豊受皇大神(伊勢の内宮・外宮神)、神明造り
五社相殿社<重附>
1694 年(元禄7年)造
①蛭子社:祭神 事代主神
②猛尾社:祭神 須佐之男大神
③若王子社:祭神 若王子大神(熊野十二所権現の一つ)
④日吉社:祭神 大山咋神(スサノオの孫/日吉大社の祭神)、山の神
⑤八幡宮社:祭神 応神天皇 石清水八幡(武運の神)
長者社<重附>
祭神 秦氏祖神
荷田社<重附>
祭神 荷田氏祖神
裏参道の神々
大八嶋社の前を北進し、御産場稲荷前を右に折れる登りは「裏参道」と呼ばれる。本殿への参道ではなく、お山巡りための参道で、稲荷大社境外に位置する。麓の方から、御産場稲荷、間カ教会、鬼法尼寺、弓矢八幡、大日本大道教、荒木神社、伏見豊川稲荷、毎日稲荷などといった個性豊かな宗教施設が続く。何故このように、いくつかの施設ができたか不明だが、お塚信仰と同じく、稲荷神と結びついた私的な神が集まったのではないかと推測される。
御産場稲荷
境外だが、伏見稲荷管理の様である。
その昔、神の使者である狐が土穴を掘って住み、子を宿し、産まれた子狐の愛情をもって育てたそうで、「狐神は人の子を守護する」という信仰が生まれた。“子宝・安産”の神として信仰される。
12ヶ所の狐穴( 1月~ 12月)があり、予定産み月の狐穴に祈願すると、無事安産すると云われる。
伏見稲荷本教間カ教会
1953年(昭和28年)創建。祭神は間カ大神。「間」の字が顔の造作となっている「間カ達磨」がユーモラス。喝法師の「喝みくじ」がある。境内に「お塚」とともに、稲荷大神、「お滝」もある。
八霊社
伏見稲荷大社とは別法人である、宗教法人 伏見稲荷本教 間力教会の神社です。
鬼法教総神苑<鬼法尼寺>
鬼子母尊神を祀る(仏教のインドの神)。子授け、安産、子育ての神、水子供養のお寺で、鳥居「出世門」がユニークである。
大日本大道教
「オダイさん」の創建で、道教の神を祀る。門前に道教の「太上老君」「道徳天尊」「娘娘神」などが祀られる。オダイさんは、神霊の依代となり、神の声を伝える。
権太夫の滝
裏参道からはずれ、北上した住宅街にある。「お山巡り」の一つ、荒神峰神蹟(田中社)の権太夫大神からの命名と云う。創建は大正元年、お滝」の中でも、よく整備が行き届いた「お滝」であり、常時滝水が流れている。
京阪電車
京阪伏見稲荷駅から伏見稲荷まで約3分です。
トイレやロッカーには狐のデザインが、描かれている。
これらの記事は、2022京都SKYシニア大学『ガイドが魅せる京都コース』の資料を参考に記事を掲載しています。