案内ルート
京阪宇治駅~宇治橋~橘橋~朝霧橋~興聖寺(参拝)~宇治神社~宇治上神社~お茶と宇治のまち歴史
序章
宇治茶と源氏物語のまち宇治、世界遺産の平等院や宇治上神社で知られている宇治ですが、この豊かな歴史や文化は宇治川と歩んできました。
飛鳥時代に宇治川に橋がかけられることにより奈良・京都・滋賀を結ぶ水陸交通の要衝として、歴史の中で重要な役割を果たすようになりました。
平安時代には宇治川を望む場所が藤原氏の別荘地として、華麗な王朝文化を花咲かせ、平等院が建立されます。
また風光明媚な宇治は万葉集や源氏物語の舞台にもなっています。
室町時代から江戸時代には宇治川の周辺では幾多の戦乱も繰り返されました。
そして鎌倉時代に始まったお茶の栽培は、宇治が土質や自然条件が恵まれたこともあり、急速に栽培が広がり今では質の高い茶のプランドとして有名になりました。
宇治橋
道と川の交わる場所
川が近江と山城の国にまたがる山々を抜けて、初めて平地に出てきたのがこの宇治の地になります。そして宇治川と呼ばれた川は巨椋の入江に流れ込んでいました。
京都盆地の真ん中一杯に広がった巨椋の入江を避けて東は宇治、西は八幡や山崎に通じる道がありました。
宇治川は急流でここを通る人や馬の命を奪うこともあったため、646年に奈良元興寺の僧道登が橋をかけました。
このことは宇治川右岸にある橋寺放生院の宇治橋断碑にきざまれています。
一説によると670年に道昭が橋をかけたとも言われています。
宇治橋は「山崎橋」と「瀬田の唐橋」と共に、日本三古橋の一つです。
日本三古橋
- 山崎橋
725年ごろ架橋 山崎太郎と呼ばれています。
- 瀬田の唐橋
667年ごろ架橋 勢多次郎と呼ばれています。
- 宇治橋
646年ごろ架橋 宇治三朗と呼ばれています。
現在の宇治橋
1996年(平成8年) 3月に架け替えられました。
桧造りの高欄、青銅製の宝珠を冠した伝統的な形状をしています。
擬宝珠は1636年作の宇治橋擬宝珠最古のものをモデルとして作られました。
橋の長さは155.4m、幅25mあります。
前の位置は現在より少し上流で、西詰めは宇治橋通に直結し東詰め、通園の茶屋の前で長さは変りませんが、幅は今より狭く2車線と細い歩道だけです。
上流の丸柱は増水した時の流木等の漂流物から橋を守るための物です。
橋脚は13本あり、これは十三仏を祀っていると言われています。
十三仏:不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩
何度もかけ替えられた宇治橋ですが明治維新以降、初の架橋には擬宝珠はありませんでした。
2代目宇治橋は1906年(明治39 年) にかけ替えられ、22基の擬宝珠が復旧されました。
3代目は1912年(明治45 年) のかけ替えで木造でした。
4代目(先代)は1936年(大正11年) のかけ替えで鉄筋コンクリート製になり、橋の高欄は伏見桃山城から良く見えるようにとピンク色に塗られていました。
三の間
橋の左岸から三つ目の径間に設けられたため、三の間と名付けられました。
かつては橋の守り神である「橋姫(瀬織津比咩尊)」がまつられていました。
また豊臣秀吉公が毎朝ここで汲んだ水を伏見城に運ばせて茶を飲んだと言われています。
現在でもこの故事にちなんで、毎年10月に行われる「宇治茶まつり」では「名水汲み上げの儀」が三の間で行われています。
通圓
宇治橋東詰には、御茶屋「通圓」があります。
創業1160年(永暦元年)で吉川英治の小説「宮本武蔵」に出てきます。
現在の建物は、1672年(寛文12年)に建てられた江戸時代の町家を残す建物です。
現オーナーは24代目の通円祐介氏が営んでいます。
紫式部像
宇治橋西詰には「源氏物語」のゆかり地の「宇治」に、その作者に敬意を払って2003年12月に建てられました。
宇治川と戦い
橋合戦
1180年平家打倒をめざして以仁王、源頼政の一行が三井寺から奈良の興福寺に応援を求めて向かう途中、平等院で休憩する間に追討軍に追い付かれ宇治川を挟んで戦闘が始まりました。
この宇治橋での戦いを橋合戦といい、初めは優勢だった源氏軍でしたが平氏軍の逆転勝利となりました。
平等院には扇之芝という源頼政が自害した場所があります。
先陣争い
1184年、木曽義仲と源義経の宇治川での戦いの際、義経方の佐々木高綱と梶原景季が、源頼朝から与えられた名馬生と磨墨で先陣を争いました。
結果、佐々木高綱が先陣を切り義経軍は義仲軍を打ち破りました。
中の島(塔の島、橘島)
搭の島、橘島
宇治川の中州である「中の島」は「塔の島」と「橘島」からなります。
塔の島と左岸は喜撰橋で渡され、橘島と左岸は橘橋で、右岸は朝霧橋で渡されています。また、中の島を挟んで宇治川左岸の散策道を「あじろぎの道」、右岸を「朝霧通り」と言います。
喜撰橋
1912年 (明治45 年)完成。
橋名の由来は平安時代の六歌仙の一人、喜撰法師にちなんだものです。
橘橋
1950年( 昭和45年)完成。
名前の由来は源氏物語や平家物語に登場する「橘の小島ヶ崎」にちなんだものです。
朝霧橋
1972年( 昭和47年)完成。
源氏物語の宇治十帖モニュメント匂宮と浮舟との像があります。
十三重石塔
現存する近世以前の石塔としては日本最大(塔高約15.2m)です。1286年、鎌倉時代に奈良西大寺の高僧の叡尊が宇治橋の修復を行った際、橋の安全と宇治川での殺生の罪を戒め、供養塔として建立されました。
先代の宇治橋の橋脚数が1 3であったため十三重石塔を横にした数とも言われました。
宇治川の洪水や地震で十三重石塔は何度も倒壊し、その度に修復されます。
しかし1756年、大洪水により宇治橋が流失し、十三重石塔が倒れて土砂に埋もれ、その後しばらくは、修復されないままでした。
1908年(明治41年) 岡山市の宗教団体の福田海により十三重石塔が再建されることとなりました。福田海の信者たちは川の中から沈んでいた石の部材を引き上げて信者たちの手で再建工事を行いましたが、九重目の笠石は見つからず相輪も折れていた為、新調されました。
後に川底から見つかった九重目の笠石と相輪は、現在、興聖寺の庭園にあります。
近代、現代の宇治川
川が延びた
宇治川下流部で川そのものの距離が延びました。
元々の宇治川は宇治橋の下流辺りまでで、巨椋池の入江となり多くの島、中州が点在していました。
400年前に豊臣秀吉公が入江に堤防を築き、宇治川を伏見、淀まで延ばしたのです。
ダム湖としての川
川の上流部の流れが堰き止められて広大なダム湖ができました。
1924年( 大正13年)発電を目的として上流に大峯堰堤が出来、遊覧船が就航します。
1925年( 大正4年)宇治川上流の渓谷部は宇治川ラインと言われ、奇石や巨岩の多い渓谷が観光ルートとして誕生します。
1974年( 昭和49年)洪水を防ぐ治水として天ケ瀬ダムが完成しました。
大峯堰堤に代わって発電設備が設けられ、治水、発電、水道の3つの目的を持つ、多目的ダムが完成しました。
発電の川
現在、宇治川の水を利用する発電所3ヶ所あります。
喜撰山ダムによる喜撰発電所、天ケ瀬ダムによる天ケ瀬発電所、宇治発電所にて合計59万kWの電気を作ることが出来ます。
宇治川鵜飼
現在、宇治川では夏の期間(7月1日~9月30日)鵜飼が行われています。
2014年(平成26年)に日本で初めて人工ふ化で生まれた11羽の海鵜が飼育されています。
「うみうのウッティー」は「宇治市」のイメージキャラクターです。
興聖寺
山号:仏徳山
開山:道元禅師
中興開山:万安英種禅師
開基:永井尚政
琴坂
細長い坂の形と横を流れる谷川のせせらぎが琴のように響くことから、琴坂と呼ばれます。
特に紅葉の名所として有名です。
山門
山門は、江戸時代後期の1844年に改築された竜宮門で、楼上に釈迦三尊像と十六羅漢像を安置していましたが現在は法堂に移りました。
鐘楼
梵鐘(宇治指定有形文化財)は、江戸時代1651年の鋳造で、「興聖の晩鐘」として「宇治十ニ景」の一つに数えられています。
江戸時代の儒学者である林羅山の銘が打たれています。
薬医門
薬医門は江戸時代後期の1846年に建立されました。
薬医門横の姫小松は樹齢300年です。
歴史
1233年鎌倉時代に道元禅師が深草に興聖寺を開創しました。
僧侶の教育・育成を目指す修行道場として全国最初に開かれ、「曹洞宗初開道場」とは興聖寺のことを指します。
興聖寺は比叡山延暦寺の弾圧を受け、やがて荒廃し住持4代で廃絶したといわています。
室町時代の応仁の乱で伽藍も焼失しました。
1645年江戸時代に淀城主の永井尚政公が、万安英種禅師を中興開山とし、宇治の朝日茶園のあった場所に興聖寺を再興しました。
七堂伽藍の作りになっています。
ご本尊
木造、寄木造りの釈迦如来は、道元禅師自作と言われています。
大書院
1912年(大正元年)建立。
1919年(大正8年)貞明皇后行啓の書院として使われました。
法堂
鳥居元忠らが自刃した伏見城の遺構で、鴬張りの廊下・血天井・杉戸絵などが特徴です。
宝物殿
聖観音菩薩立像(手習観音)
「源氏物語」宇治十帖の手習之古蹟である「手習の杜」に祀られていたとされます。
宇治川に身を投げた浮舟は、手習の杜付近で比叡山横川僧都に命を助けられたという物語です。
天竺殿
永井尚政公ら一族の像がまつられています。
開山堂
道元禅師が梅の花を好まれた事から「老梅庵」と名づけられています。
僧堂
参禅・喫飯・就寝等、修行僧の生活の基となる建物です。
東司(お手洗い)・浴司(お風呂)・僧堂の建物を三黙道場いいます。
只管打坐:仏の悟りを求めたり想念をはたらかすことなく、ひたすら座禅することです。曹洞宗の座禅の特色になります。
興聖寺から月例坐禅会のメッセージ
パンフレット③の日曜参禅会は、現在月例坐禅会と名称変更になっているようです。2022年4月より、毎月2回、日程は決まり次第、当山掲示板やHP等でご確認いただいているようなので、興聖寺様から下記のメッセージをいただきました。
坐禅会参加の皆様へ
興聖寺月例坐禅会を四月より担当する鈴木泰道です。
日曜坐禅会の日時変更など、皆さまにはいろいろとご迷惑をお掛けすることとなります。
どうかご理解をお願いいたします。
日時の変更などLINEグループを使うのが便利かと思いますので、下記のQRコードを読み取りいただきご登録をお願い申し上げます。
よろしくお願いいたします。
宇治神社
宇治の産土神として崇敬を集めています。
ご祭神は第15代応神天皇の皇子、菟道稚郎子。
応神天皇の離宮、桐原日桁宮跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命 の宮居の跡と伝えられていて、菟道稚郎子命の死後にその神霊を祀ったのが、この神社の始まりです。
創建年代などの起源は明らかではありませんが、927年成立の「延喜式」神名帳に記載があります。
宇治上神社とはニ社一体の存在で、明治維新までは宇治離宮明神と呼ばれ離宮下社と称されました。
宇治上神社
歴史
応神天皇の離宮、桐原日桁宮跡でもあり、
皇子の菟道稚郎子命 の宮居の跡と伝えられています。
宇治神社とはニ社一体の存在でした。
明治維新までは宇治離宮明神と呼ばれ離宮上社と称されました。
藤原氏が平等院建立の後、宇治上神社はその鎮守社として位置づけられ、崇敬を集めたといわれています。
1994年( 平成6年 )ユネスコ世界文化遺産に登録されました。
ご祭神
3柱を祀っています。
左殿:菟道稚郎子命
中殿:応神天皇
右殿:仁徳天皇
桐原水
かつて宇治七名水の一つに数えられていた「桐原水」が湧き出ています。
七名水のうち現存するのは、この桐原水のみです。
拝殿
鎌倉時代初期に造営された国宝です。
年輪年代測定による調査で1215年後の造営であることがわかりました。
拝殿の前には円錐形に盛り上げられた砂の小さな山がニつ作られていて、「清め砂」といわれています。
寝殿造であり、神社建築というよりもむしろ住居建築としての性格が強いという、珍しい拝殿となっています。
屋根の形は縋破風という形式です。
本殿
年輪年代測定による調査の結果、「本殿」及び「左殿」、「中殿」、「右殿」の三社は
平安時代後期に造営された国宝です。
現存する神社建築の中で最も古いもので、中央の内殿の中央「中殿」は応神天皇を、「左殿」(向かって右側)は菟道稚郎子を、「右殿」(向かって左側)は仁徳天皇を祀っています。
1060年頃に建てられたことがわかり、神社建築としては日本最古のものです。
内殿は、それぞれ一間社流造で、宇治上神社の本殿は、左殿、中殿、右殿の内殿三棟を横長の覆屋で覆った形式を取っていて、覆屋も流造になっています。
また本殿の扉絵は重要文化財ですが、見ることは出来ません。
浄土の世界(平等院)
彼岸
平安時代の宇治は、平安貴族の別業の地となっていました。
平等院は1052年に宇治関白藤原頼道が、父道長の別荘を寺院に改めたものです。
翌年1053年に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立されました。
1670年に阿弥陀堂の大規模修理が行われ、この頃より鳳凰堂と呼ばれるようになりました。
1994年(平成6年)ユネスコ世界文化遺産に登録されました。
阿弥陀さまのお顔は格子窓より池の向こうからくっきり見えるように工夫されており、創建時の庭園は宇治川まで州浜が敷き詰められ、水は阿弥陀堂の両翼廊まで迫っていました。
落日の頃はまさに西方極楽浄土であったとうかがえます。
此岸
平等院の宇治川対岸は此岸とみなされました。
此岸にある宇治上神社は平等院の鎮守社でもありました。
平等院
平安時代の宇治は、宇治川界隈の風光明媚な景観と都の郊外という条件から平安貴族の別業の地となっていました。業は貴族たちにとってくつろぎの場であるとともに、精神的な安息をえる場所でもありました。そのため別業には必ずと言ってよいほど「御堂」と呼ばれる持仏堂が営まれていました。
1052年に宇治関白藤原頼道が、父道長の別荘を寺院に改めたものです。
最初に大日如来を安置した本堂が建立されました。この本堂は別業の寝殿が使用されたもので、現在の観音堂がこれにあたると考えられています。
翌年1053年に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立されました。1670年に阿弥陀堂の大規模修理が行われ、この頃より鳳凰堂と呼ばれるようになりました。
太閤堤
太閤堤の発見
2019年( 平成 9年)宇治橋下流約400mの宇治川右岸、菟道稚郎子の墓付近で深さ1.5mの地点から長さ250mの石積遺構が発見されました。
石積み護岸と杭止め護岸を見ることが出来ます。
- 石積み護岸:大量の石材を積み上げて築いた護岸
- 杭止め護岸:杭などの木材で垂直に杭を築いた護岸
太閤堤とは
太閤豊臣秀吉が伏見城築城の際に、巨椋池周辺の京都盆地南部地域で行った大土木工事の総称です。
- 向島から宇治までの槇島堤を築いて宇治川を北へ迂回させ水を伏見に導いた。
- 伏見から淀までの淀堤を築くことで宇治川と淀川が直接結ばれ、伏見と大阪を直結する水路が開かれた。また大阪へと続く街道としても利用された。
- 伏見から向島へ豊後橋(現観月橋)を架けた。
- 向島から小倉までを巨椋池の中に小倉堤を築いて奈良へ続く大和街道として利用された。
太閤堤は治水のみを目的としたものではなく、秀吉公が自らの城下町伏見へ交通を集中させるために行ったものです。
巨椋池
入江だった巨椋は、太閤堤ができたことで巨椋池となりました。
その後、巨椋池は1941年(大正16年)に干拓され現在の姿となりました。
お茶と宇治のまち歴史公園
2021年10月にオープンしました。宇治のシンボルである宇治橋と太閤堤跡、菟道稚郎皇子御墓を結ぶ、歴史軸上に位置し、その歴史を感じることができる公園です。園内には茶づなの愛称がついた交流館があり、宇治茶の成り立ちから、宇治の歴史の流れを展示と映像で学ぶことができます。また、茶摘みや抹茶づくりなどさまざまな体験プログラムを通して、まちとひと、歴史、文化をつなぎ、宇治の観光やまち歩きが楽しくなる魅力を発信します。
上記は「お茶と宇治のまち歴史公園」のパンフレットをコピーしました。(2022年5月10日現在)
お茶と宇治のまち歴史公園ホームページ
宇治イラストマップ
これらの記事は、2022京都SKYシニア大学『ガイドが魅せる京都コース』の資料を参考に記事を掲載しています。