兼好法師の御室・花園を巡る

兼好法師の御室・花園を巡る

案内コース

仁和寺~双ヶ丘~長泉寺~法金剛院

吉田兼好

吉田兼好(1283~1352年頃)の時代は、鎌倉時代末期から南北朝寺代という激動の時代にあたります。武家社会が中心になってきたため兼好法師のような官人は、浮かばれず、遁世者(とんせいしゃ)として清貧(せいひん)自適(じてき)な暮らしを営んでいたと思われます。さて我々も兼好法師を見習って法師の歩いた道を巡ってみたいと思います。

兼好法師が観た御室の風景

  • 高い位の貴族の子孫が入寺する仁和寺は、御室御所と呼ばれていました。
  • 雙ケ岡(ならびがおか)は、風光明媚なところで仁和寺の法師がよく遊びに行きました。
  • 仁和寺に所属する沢山の院家(いんげ)が雙ケ岡周辺に点在していました。

院家:寺格の一つ。門跡に次ぐ式と由緒をもつまたそのような寺院の住職のこと。(浄土宗大辞典より)

兼好法師は、仁和寺の法師たちと仲良く付き合っていたようです。

【第52段】

「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水(いわしみず)(をが)まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)より詣でけり」

(いわ)清水(しみず)八幡宮(はちまんぐう)に行ったつもりが、八幡宮(はちまんぐう)末寺(まつじ)末社(まっしゃ)に詣り、これだけだと思い込んで山に登らずに帰ってきた世間知らずの老僧(ろうそう)の話

【第53段】

「これも仁和寺の法師、名残りとて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて(きょう)に入るあまり、(かたわ)らなる足鼎(あしかなえ)を取りて、頭にかづきたれば、詰まるやうにするを、鼻をおしひらめて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに満座興(まんざきょう)に入ること限りなし。」

⇒宴会で受けようとして足鼎(あしかなえ)(かぶ)り、抜けなくなり大怪我をしたお調子者の話。

(足鼎(あしかなえ):三本足の室内装飾用のかなえ)

【第137段】

花は盛りに月は(くま)なきをのみ見るものかは

(桜の花は満開の時だけ、月は満月寺だけに見るものだろうか?いやそうではない)

花の盛りや満月ばかりが美なのではなく、 雨のために見えない月を思うこと、 散った花びらがしおれて散らばった庭にも別の美しさがあるというもの

【第54段】

御室にいみじき稚児(ちご)ありけるを、 いかで誘ひ出して遊ばんとたくむ法師どもありて」

雙ケ岡(ならびがおか)折詰(おりづめ)を埋めて稚児(ちご)を誘い出そうとするが、折詰(おりづめ)を盗まれてしまう話。

【第60段】

真乗院(しんじょういん)に、盛親僧都(じょうしんそうず)とて、やんごとなき智者(ちしゃ)ありけり。芋頭(いもがしら)といふ物を好みて、多く食ひけり。」

里芋が好物の高僧(こうそう)が師匠から譲られたお金や僧房(そうぼう)まで里芋に変えてしまう話。

兼好法師は、古道(千代の古道)を通って我野や嵐山に行きました。

【第24段】

「斎宮の、野宮(ののみや)におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか。」

野宮(ののみや)をお参りして()み言葉を(おもむき)(ぶか)いものだと感心しました。

仏語(ふつご)不浄(ふじょう)な語を避けて、代わりに用いた言葉。経を「染め紙」、仏を「中子(なかご)」、僧を「髪長(かみなが)」、尼を「女髪長」といった類。

【第51段】

「亀山殿の御池(みいけ)に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民(どみん)(おお)せて、水車(みずぐるま)を作らせられけり。」

⇒亀山殿:1255年に後嵯峨上皇が嵯峨に造営された仙洞(せんとう)御所(ごしょ)。いまの天龍寺がその位置に当たる。亀山は、小倉山の東南の尾が亀甲の形に似ているので亀尾山といったのによる。

『千代の古道』

平安時代、嵯峨院(大覚寺)への道

梅宮から広沢の池、嵯峨大覚寺に至る府道に「千代の古道」の道標が立てられています。古代嵯峨野は神聖な葬送(そうそう)の地であり、多くの古墳が残された地域ですまた、平安時代には藤原定家らが歌に()んだ、嵯峨院(大覚寺)へ通じる貴族の遊饗の道ともなっていました。

古道1 :梅宮大社から大覚寺

古道2 :妙心寺~法金剛院~広沢池~大覚寺

(京都市埋蔵文化財研究听京都歴史散策マップの千代の古道より)

仁和寺

別名御室御所と言われています。

真言宗御室派総本山仁和寺

山号:大内山

本尊:阿弥陀如来

宇多天皇 888年(仁和4年)創建

格式高く王朝文化の香りをたたえる境内

緩やかな斜面地形を利用して雛壇式(ひなだんしき)伽藍(がらん)を配しています。

御室の看板
仁和寺の看板

①二王門【重要文化財】

仁和寺の正面に建つ巨大な門。高さは18.7mで重層、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺。門正面の左右に阿吽(あうん)の二王像、後面には唐獅子像を安置します。同時期に建立された知恩院三門、南禅寺三門が禅宗様の三門であったのに対し、平安時代の伝統を引く和様で統一されています。

仁王門(表)
仁王門
仁王門(右)
仁王門(左)
仁王門の看板

②勅使門

1913年(大正2年)竣工。設計は京都府技師であった亀岡末吉。檜皮葺(ひわだぶき)屋根(やね)四脚(しきゃく)唐門(からもん)で前後を唐破風(からはふ)、左右の屋根を入母屋造(いりもやづくり)としています。また、鳳凰(ほうおう)尾羽根(おばね)牡丹(ぼたん)唐草、宝相華(ほうそうげ)唐草文様や幾何学(きかがく)紋様(もんよう)など、細部にまで見られる彫刻装飾は、伝統的和様に亀岡独自の意匠を取り入れたもので、斬新かつ見応えがあります。

勅使門

③中門【重要文化財】

二王門と金堂の中間に位置し五重塔や観音堂といった伽藍(がらん)中心部に向かう入口ともいえる門。切妻造(きりづまづくり)・本瓦葺・柱間(はしらま)三間(さんげん)の八脚門で、側面の妻部(つまぶ)には二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)がられています。また、向かって左側に西方天(広目(こうもく)天)、右側に東方天(持国(じこく)天)を安置します。

中門①
中門②

④名勝御室桜

毎年春、仁和寺は満開の桜で飾られます。金堂前(こんどうまえ)染井吉野(そめいよしの)鐘楼(しょうろう)前のしだれ桜などが競って咲き誇ります。その中でも中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる遅咲きで有 名な桜の林があります。古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に(うた)われております。近年までは桜の下に硬い岩盤があるため、根を地中深くのばせないので背丈が低くなったと言われていましたが、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌であることが解りました。品種は、「有明」がほぼ8割を占め、そのほとんどが一重咲です。「花(鼻)低いということから「お多福桜」ともいいます。「ワタしやお多福、御室の桜、花が低ても人が好く」と(うた)われました。満開は4月2 0日過ぎと遅く、桜の名所の多い京都で最後を飾ります。国の名勝に指定されています。

御室桜の看板
御室桜①
御室桜②
御室桜入口
御室桜出口

⑤五重塔【重要文化財】      

1644年(寛永21年)建立。塔身32.7m、総高36.18m。東寺の五重塔と同様に、上層から下層にかけて各層の幅にあまり差が見られない姿が特徴的です。初重(はつじゅう)西側には、大日如来(だいにちにょらい)を示す梵字(ぼんじ)の額が()けられます。塔内部には大日如来(だいにちにょらい)、その周りに無量寿如来(むりょうじゅにょらい)など四方仏が安置されます。中央に心柱(しんばしら)心柱(しんばしら)を囲むように四本の天柱(てんちゅう)が塔を支え、その柱や壁面には真言八祖(しんごんはっそ)や仏をはじめ、菊花(きっか)文様(もんよう)などが細部にまで描かれています。

五重塔

⑥観音堂【重要文化財】

入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺で前後に向拝(ごはい)が付き、たち((けん)までの高さ)の高い建物です。本尊(ほんぞん)千手観音(せんじゅかんのん)菩薩(ぼさつ)で、脇侍(わきじ)として不動明王・降三世(ごうざんぜ)明王、その周りには二十八部衆が安置され、須弥壇(しゅみだん)の背後や壁面、柱などには、白衣(はくい)観音(かんのん)をはじめ仏・高僧などが極彩色で描かれています。内部は通常非公開とされ、現在も仁和寺に伝わる法流(ほうりゅう)相承(そうしょう)などに使用されています。

観音堂の看板
観音堂

⑦金堂【国宝】

仁和寺の本尊(ほんぞん)である阿弥陀(あみだ)三尊(さんぞん)を安置する御堂。慶長年間造営の御所内裏紫宸殿(りししんでん)を寛永年間(1624 ~ 43年)に移築したものです。現存する最古の紫宸殿(ししんでん)であり、当時の宮殿建築を伝える建築物として、国宝に指定されています。堂内は四天王像や梵天像(ぼんてんぞう)も安置され、壁面には浄土図や観音図などが極彩色で描かれます。

垂木(たるき)は、三軒(みのき)と呼ばれる珍しい造です。この建物の由来を示しています。

⇒正面すべて(しとみ)とし、妻壁(つまかべ)大虹梁(だいこうりょう)上に大蟇股(だいかえる)二重虹梁(にじゅうこうりょう)を載せるなど紫宸殿(ししんでん)の外観を残しています。

金堂の看板
金堂

⑧経蔵【重要文化財】

寛永~正保年間の建立。宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺。正面に両開きの板唐戸(いたからと)、左右に花頭窓(かとうまど)を付け、禅宗(ぜんしゅう)(よう)で統一されます。内部は釈迦(しゃか)如来(にょらい)文殊菩薩(もんじゅぼさつ)普賢菩薩(ふげんぼさつ)など六躯(ろくたい)を安置し、壁面(へきめん)には八大菩薩(はちだいぼさつ)十六羅漢(じゅうろくらかん)が描かれます。内部中央には八面体の回転式書架(しょか)輪蔵(りんぞう))を設け、各面に96箱、総計768の経箱(きょうばこ)が備えられており、その中には天海(あまみ)版の『一切経(いっさいきょう)』が収められています。

⑨鐘楼【重要文化財】

入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺。「鐘楼(しょうろう)」の「(ろう)」とは元来二階建ての建物を指します。階上(かいじょう)朱塗(しゅぬり)高欄(こうらん)を周囲に廻らせ、下部(かぶ)袴腰式(はかまごししき)と呼ばれる(はかま)のような板張りの覆いが特徴的です。また、通常吊られた鐘は外から見ることが出来ますが、この鐘は周囲を板で覆われており見ることが出来ません。

鐘楼

⑩水掛不動尊

近幾三十六不動霊場の第十四番札所。鐘楼(しょうろう)御影堂(みえどう)の間に位置し、石造の不動明王を安置します。不動明王に水を掛けて祈願する事から、水掛不動とも呼ばれています。

水掛不動尊の看板
水掛不動尊

⑪御影堂【重要文化財】

鐘楼(しょうろう)の西に位置し弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像を安置します。御影堂(みえどう)は、慶長年間造営の内裏清涼殿の一部を(たまわ)り、寛永年間に再建されたもので、(しどみ)()の金具なども清涼殿のものを利用しています。約10m四方の小堂ですが、檜皮葺を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂といえます。

(しどみ)()蝉形(せみがた)金具は、清涼殿のものが再利用されています。

御影堂の看板
御影堂
御影堂のセミ

⑫大黒堂

大黒堂

⑬令和阿弥堂

令和阿弥堂

双ヶ丘

仁和寺の南に広がる小丘で昭和16年に名勝に指定されました。

3つの丘から構成され、 北側から順次に一の丘(標高1 1 6m)、 二の丘、 三の丘と呼ばれています。

古生層(こせいそう)の独立丘で、国の名勝に指定されています。

一の丘の頂上には、大規模な古墳があり、何度も盗掘(とうくつ)されています。(ふん)(きゅう)の南側には、 「右大臣、 清原夏野(きよはらのなつの)公墓(こうぼ)」 と称する花崗岩の碑柱が立っています。 ただし、この古墳が夏野(なつの)のものとは断定できません。 被葬者はもとより造成の時期も不明です。

石材の規模は大きなもので25トンもあり、奈良の石舞台に匹敵します。

大きな古墳はほかにはありませんが、 規模の小さいものは、無数に散在しています。

風光明媚なところから貴族の別荘地として知られるようになりました。

右大臣清原夏野(きよはらのなつの)の ( 782年~ 837年 )や嵯峨天皇の皇子である左大臣(みなもと)(のときわ)( 812年~854年)などがこの地に山荘をかまえました。

「双ヶ丘」を歌に()んだものとして

ならびのをかに無常所まうけて

かたはらにさくらをうへさすとて

ちぎりおく 花とならびの おかのヘに

あわれいくよの 春をすぐさむ

兼好

【通釈】 いつまでも一緒にいようと約束した花と仲良く並んで、このならびの岡のほとりで、ああ幾年の春を過ごすことになるのだろうか。

兼好法師は、伊賀で歿(ぼっ)したとされていますが、「ちぎりおく・・・」の寿歌(ことぶきうた)のとおり、

かねてより安息の所を双ヶ丘と定めていたので、その遺志が果たされて、ゆかりの岡の辺に(ほうむ)られました。

双ヶ岡の看板
双ヶ岡の野鳥
双ヶ岡

長泉寺 ~兼好法師旧跡~

兼好法師を(しの)ん江戸時代の元禄年間に建立。浄土宗尼寺。兼好塚と歌碑(かひ)がありますが、非公開です。徒然草は、兼好法師五十歳前後の著述で、双ヶ丘二の丘西麓(せいろく)に住んだと伝えられており、一の丘東麓(とうろく)長泉寺(ちょうせんじ)にその歌碑(かひ)と墓があります。二の丘に無常所を設けて、つれづれに、感想などをその折々に書き綴ったもので、訓戒(くんかい)、評論、叙景(じょけい)、逸話、風刺(ふうし)など2 5 0余章からなり、随筆文学中の白眉(はくび)とされています。長泉寺(ちょうせんじ)には、兼好自筆の歌集一巻も伝えられており、頓阿(とんあ)慶運(きょううん)浄弁(じょうべん)もに和歌四天王と称されています。兼好法師の墓は、 もとは二の岡西ふもとでしたが、 後に東ふもとの長泉寺(ちょうせんじ)墓地内に移され (1704年頃)、 今に供養されてきました。 但し現在の兼好の墓石が、その当時のものであるかは定かではありません。

(註)和歌四天王:鎌倉末期から南北朝時代に活躍した二条派の頓阿・慶運・浄弁・兼好

<参考資料>

御室小学校・学区創立1 1 0周年記念誌

京都市平安京創生館展示図録平安京百景

 長泉寺碑
 長泉寺
オムロン発祥の地
オムロン発祥の地

法金剛院

律宗(りっしゅう)唐招提寺(とうしょうだいじ)に属しています。830年右大臣清原夏野(きよはらのなつの)が山荘を建て、死後、寺として双丘寺と称しました。珍花(ちんか)奇花(きくわ)を植え、その景勝を愛で、仁明天皇から五位の位を授けられ、内山を五位山(ごいさん)といいます。文徳天皇が8 5 8年(天安2年)大きな伽藍(がらん)を建て、定額寺(じょうがくじ)(れっ)天安寺(てんあんじ)とされました。平安末期、 1130年鳥羽天皇の中宮待賢門院(たいけんもんいん)天安寺(てんあんじ)を復興し、法金剛院(ほうこんごういん)とされました。寺は、 五位山(ごいさん)を背に中央に池を掘り、池の西に西御堂(にしみどう) (現本尊丈六(じょうろく)阿弥陀(あみだ)如来(にょらい))、 南に南御堂(みなみみどう) (九体阿弥陀堂(あみだどう))、 東に女院の寝殿が建てられ、 庭には瀧 (青女の瀧) を造り、極楽浄土を模した庭園としました。桜・菊・紅葉などの四季折々の美観は見事なもので、 西行(さいぎょう)をはじめ多くの歌人が歌を残しています。西行(さいぎょう)は、待賢門院(たいけんもんいん)が亡くなられて、次の歌を残しています。「紅葉みて君が(たもと)やしぐるらむ昔の秋の色をしたひて」鎌倉時代になって円覚(えんがく)十万上人が融通念仏(ゆうずうねんぶつ) (壬生狂言・嵯峨念仏) を広め、 寺門を復興しようしましたが、応仁の乱・天正・慶長の震災で、堂宇(どうう)を失い、1617年(元和3年)照珍(しょうちん)和尚が本堂・経蔵(きょうぞう)等を建立されましたが、旧に復することができませんでした。兼好法師は、双ヶ丘の(いき)法師(ほうし)といわれ、このお寺の桜を愛していたようです。

法金剛院の看板
法金剛院
法金剛院の庭
法金剛院の庭
法金剛院の庭
法金剛院

待賢門院いけんもんいん)

  • 藤原璋子(ふじわらのたまこ)(1101~1145年)・鳥羽天皇(1103 ~1156年)の中宮
  • 父は権大納言(けんだいなごん)藤原公実(ふじわらのきんざね)・母は藤原光子(ふじわらのみつこ)で、藤原氏の傍流(ぼうりゅう)     (閑院流(かんいんりゅう))出身
待賢門院の碑

法金剛院の仏像

平安時代 西御堂の本尊で、藤原仏を代表する丈六阿弥陀如来。院覚の作で蓮弁の彫刻は誠に豪華。(古くは平等院・法界寺と共に定朝の三阿弥陀といわれました。)

これらの記事は、2022京都SKYシニア大学『ガイドが魅せる京都コース』の資料を参考に記事を掲載しています。

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