大本山 天龍寺
山号
霊亀山
宗派
臨済宗天龍寺派
寺格
大本山 京都五山一位
本尊
釈迦如来
創建
1345年(康永4年)
開基
足利尊氏
開山
夢窓疎石
正式名
霊亀山天龍資聖禅寺
概略
天龍寺は、臨済宗天龍寺派の大本山で山号を霊亀山といい、夢窓疎石を開山、足利尊氏を開基として建立された禅寺であります。足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模として壮大な規模と高い格式を誇り南禅寺を五山の上として天龍寺を京都五山第一位、この位置づけは以後長く続きました。1994年(平成6年)には世界文化遺産に登録されました。1339年(暦応2年)8月、後醍醐天皇が吉野に崩御されたとき、足利尊氏が天皇の菩提を弔い冥福を祈る禅刹を建立することにしました。これによって建立されたのが、暦応資聖禅寺であります。後に弟の直義が夢の中で大堰川に金龍が現れたとことによって、寺名を天龍資聖禅寺と改めて現在に至っています。
歴史
天龍寺の地は、もと壇林寺の旧地であって平安の初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が中国から義空禅師を招かれ禅師のために建てられ、承和年間(834~848)に営まれたのがこの壇林寺でありました。皇后もその子院の一つに住まわれたので、壇林皇后といわれました。その後、荒廃し廃絶した壇林寺の地に四百数十年の後、後嵯峨上皇が離宮亀山殿(仙洞御所)を造営され、亀山天皇から孫の後醍醐天皇に伝領されました。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、勅願寺として建立した寺院が決まり夢窓宛の院宣が発せられました。しかし比叡山が暦応の年号を寺号にすることに反対し抗議したため幕府は天龍資聖禅寺と改めました。
1344年(暦応3年)4月仏殿・僧堂・庫裏・法堂・山門の木作始、4月7月地鎮祭を行い、およそ5年を費やして完成、1345年(暦応4年)秋、後醍醐天皇7回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれました。造営の膨大な費用の捻出には3つの方法がとられました。第1は造営料所としての荘園の寄進、第2は光厳院より寄進、第3に天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が元朝へ派遣され、この貿易の収益が費用に充てられました。『太平記』によると『仏殿、法堂、庫院、僧堂、山門、総門、鐘楼、方丈、浴室、輪蔵、雲居庵、七十余宇の寮舎、八十四間の廊下云々』とあるが、その宏壮を偲ぶことが出来ます。
このように造営された天龍寺は武士の帰仰を得て発展した鎌倉禅の京都への進出であり、京都の公家文化と鎌倉の武家文化が融合する基礎をつくったといえます。しかし寺の特色をいうのに天龍寺の武家面といわれるが、開基が皇室や公家の寺と異なって足利氏という武家が庇護してできた寺であるからおのずからそのような特色があったと思われます。
天龍寺の五山十刹の位置づけは、1342年(康永元年)創建当初の五山の第2位に始まります。次に1386年(至徳3年)に南禅寺が五山の上に置かれると京都五山の第1位となり、鎌倉健長寺と同格と位置づけられたが、1401年(応永17年)には再び第1位に戻り、以後変化はありませんでした。京都五山の第1位として栄えて、寺域は約950万平方mに及ぶ広大なもので、子院150の寺を数えたといいます。しかしその後の度々の火災に逢い、創建から今日まで8回焼けており、1358年(延文3年)、1367年(貞治6年)、1373年(応安6年)、1380年(康暦2年)、1447年(文安4年)、1467年(応仁元年)、応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰でありましたが、江戸時代の1815年(文化12年)、幕末の1864年(元治元年)、蛤御門の変(禁門の変)などで創建当時の建物はことごとく失われて、現在伽藍の大部分は明治時代後半以降のもので建築物の古い見るべきものはありません。ただし、庭園のみは700年前の夢窓国師作庭当時の面影をとどめており、わが国最初に史跡・特別名勝に指定されました。1899年(明治32年)に法堂・大方丈・庫裏、1924年(大正13年)に小方丈、1934年(昭和9年)に多宝殿などが再建されました。1876年(明治9年)、他の臨済宗各派と共に独立して天龍寺派を称して独立しました。
伽藍
境内東端に勅使門、中門があり、参道は西に伸びています。これは、通常の禅宗寺院が原則としている南を正面とし、南北に主要建物を並べるのとは異なっています。参道両側に『搭頭』が並び正面に『法堂』その奥に『大方丈』『小方丈』『庫裏』『僧堂』『多宝殿』などがありますが、いずれも近代の再建であります。
勅使門
江戸時代の火災を免れた寛永年間(1624~1644)のものとされ、もと伏見城にあったと伝えられ、天龍寺では最古の建築物であります。細部によく桃山様式を伝えています。中門と共に四脚門であります。
法堂
法堂は勅使門の後方(西側)にあり、1864年(元治元年)に焼失した法堂に代わりに明治時代に旧坐禅堂を移築したもので、五間四間・一重・寄棟造・桟瓦葺の新しい建物です。東を正面として、そこに『選仏場』の額を掲げています。内部は広々としていて、床は甎敷(せんじき)、天井は鏡天井で、この法堂の天井は雲に躍る龍が描かれていたが、明治・大正時代の画家鈴木松年により1899年(明治32年)紙に描かれたものであったため傷みがひどかったので、1997年(平成9年)加山又造により板に八方にらみの龍の雲龍図が板に描かれました。正面中央須弥壇には釈迦三尊像(釈迦・文殊・普賢)が祀られています。勅使門と法堂との間には放生池があり、石橋が架けられています。
庫裏
1899年(明治32年)の建立です。法堂の北側にあります。庫裏は七堂伽藍の一つで台所兼寺務所の機能があります。方丈や客殿と棟続きで、切妻造の屋根下の大きな三角形の壁を正面に見せています。白壁を縦横に区切ったり、曲線の梁を用いたりして装飾性を出した建物で天龍寺景観の象徴ともなっていいます。また、玄関の正面に置かれる大衝立の達磨図は前管長である平田精耕老師の筆によるもので、達磨宗の禅を象徴し、天龍寺の顔ともいえます。
大方丈
大方丈と書院からなります。大方丈は1899年(明治32年)の建築です。当山最大の建築で、正面と背面に幅広い広縁をもち、その外に落縁がまわっています。内部の間取りは三室が前後に並ぶもので、別に南と北に一間通りの鞘の間を取っています。東正面中央の室が『室中』に当たる部屋で、広縁との境は中央が両折の桟唐戸、その両脇が板扉になっています。内部は中央に釈迦尊像を祀る四十八畳敷の大広間、左右の両室はともに二十四畳敷で、天井は棹縁天井を三室通して張り、間仕切の竹の節欄間との間があいていて広々としています。西側の建具はすべて舞良戸と障子で室の内外を仕切っています。内部正面の東西を間仕切るふすまには雲龍の墨絵が描かれています。
書院は1924年(大正13年)の建築です。書院で2列に多くの部屋が並んでいます。来客や接待や様々な行事、法要などに使用されています。
多宝殿
1934年(昭和9年)に再建された後醍醐天皇を祀る建物です。書院の西ゆるやかな上り坂に合わせて屋根付きの廊下があり、栗のなぐり材を並べた橋が架かり、右手には茶室祥雲閣・甘雲亭が作られています。廊下を行きついた先にあるのが多宝殿であります。もと亀山離宮にあった後醍醐天皇幼少期の学問所でした。この御殿は南面に建ち、前の七間五間の拝堂は正面に一間の階段付向排をもち、それを上がれば広縁がとってあり、その奥がき母屋で広縁の柱間は三間であります。柱はすべて大きい面を取った方柱で建具は蔀(しとみ)で内部に明障子、彫刻や飾り金具まで鎌倉時代の様式に統一されています。
文化財
曹源池(国指定史跡・特別名勝)
庭園は曹源池を中心に亀山・嵐山を借景とした池泉回遊式庭園で、夢窓国師の作庭と伝えられています。池の前庭には州浜形の灯や島を配し白砂と松の縁が際立ち、大和絵さながらの味を見せています。
龍門の瀧
曹源池の山際に岩石を組んで遠山渓谷を表現し、渓流が池に落ちる滝口に巨岩を二段に立てて瀧の落ちる様にかたどり、これに鯉魚石を配して登龍門の故事になぞえらえ龍門の瀧といいます。滝壺には三枚の自然石を以て石橋が架けられており、これは日本最古の石橋といわれています。
寺宝
国指定重要文化財
絹本著色夢窓国師像(3幅)
絹本著色観世音菩薩像
絹本著色清凉法眼禅師像
絹本著色雲門大師像
木造釈迦如来坐像
紙本墨書遮那院御領絵図
紙本墨書往古諸郷館地之絵図
紙本墨書応永鈞命絵図
東陵永璵墨蹟
北畠親房消息
その他寺宝は多数あります。
天龍寺十境
1346年(貞和2年)夢窓により亀山十境が定められたのが天龍寺十境であります。
普明閣(ふみょうかく)
三門の雅称で壮麗な楼閣であります。
絶唱渓(ぜっしょうけい)
大堰川の清流です。
霊庇廟(れいひびょう)
夢窓が霊夢により八幡大菩薩を祀った鎮守八幡宮です。
曹源池(そうげんち)
夢窓作の方丈の庭園です。
拈華嶺(ねんげれい)
現在の嵐山であります。
渡月橋(とげつきょう)
現在の位置より川上一町ばかりの所にありました。
三級岩(さんきゅうがん)
嵐山の音無瀬の瀧です。
万松洞(ばんしょうどう)
門前から渡月橋にいたる間に老松の松並木が洞門のごとく生い茂ったゆえのものです。
龍門亭(りゅうもんてい)
嵐山の音無瀬の瀧に対して建てられた茶亭です。
亀頂塔(きちょうとう)
亀山の山頂にあたってはるかに嵯峨野をへだてて洛陽を一望のうちにおさめるところであります。
夢窓疎石
1275年(建治元年)伊勢国に生まれました。父方は源氏の流れをくみ宇多天皇の9世の孫という東条朝綱、母方は平氏の出身で疎石4歳の時、一家は甲斐国に移住し、この年疎石は母を亡くしています。しかし、母によって信仰的に育てられた疎石は仏像を見れば拝みお経を唱えていたといいます。1283年(弘安6年)9歳の時、父に連れられて平塩山の空阿を訪れ、空阿のもとで仏典や孔子・老子の典籍などを学びました。1292年(正応5年)18歳で奈良の東大寺で受戒しました。そんなある日、疎石は夢の中で中国の疎山・石頭を訪れ、そこであった僧から達磨大師の像を預かり『これを大切にするように』と言われました。目覚めた疎石は自分が禅宗に縁があると考え、疎山・石頭から一文字ずつとって疎石と名乗り、夢の縁から夢窓と号したといいます。20歳になった疎石は京都に上がり、建仁寺の無隠円範について禅の修行に入りました。1295年(永仁3年)に鎌倉で無及徳詮に学び、1297年(永仁5年)に建仁寺の無隠円範に再び参じましたが、一山一寧が来日するとすぐに教えを受けています。1299年(正安元年)一山一寧が鎌倉建長寺に住することになると、疎石も従い修行を重ねていきました。1305年(嘉元3年)に疎石は常陸国白庭に行き、小庵で坐禅三昧の生活を始めます。ある夜、長時間の坐禅から立ち上がり壁にもたれようとしましたが、暗かったため壁のないところにもたれて転倒し、その拍子にスッキリと悟りを得ることができました。すぐに疎石は鎌倉の高峰顕日のもとへ向かい悟ったところを提示すると、顕日は『達磨の意をあなたは得た。よく護持するように』と讃えたといいます。1325年(正中2年)後醍醐天皇が京都南禅寺の住持に疎石を招きましたが、翌年には鎌倉へ赴きその後4年円覚寺に住しました。長年荒廃していた円覚寺は疎石によって復興しました。1333年(元弘3年)後醍醐天皇の命令により京都臨川寺開山、また南禅寺住持に再任され1335年(建武2年)に『夢窓国師』の国師号を授けられました。この頃、足利尊氏が疎石に対して弟子の礼をとり、1339年(暦応2年)に後醍醐天皇が崩じると、天龍寺の開創事業が始まり、1345年(康永4年)には後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて開堂法要が盛大に営まれました。1351年(観応2年)には僧堂が落成し、疎石は一度は雲居庵に退いたが弟子の教化にあたっています。同年8月の後醍醐天皇十三回忌法要の翌日、疎石は病の兆候を見せ臨川寺に退去し、9月30日、77歳で示寂しました。疎石の教化を受けた者は13,045人いたと伝わり、朝廷からも篤く帰依され、朝廷は疎石の徳を尊び『夢窓・正覚。心宗・普済・玄猷・仏統・大円』の7つの国師号を下賜しています。
年間案内
定例行事
天龍寺坐禅会
開催日 | 毎月第2日曜日 9:00~10:00 ※2・7・8月は休み 但し、7月最終の土日に暁天講座 |
志納金 | 一般(但し個人)参加者は無料 ※予約不要 初心者でも可 |
場所 | 友雲庵 |
龍門会
開催日 | 毎月第2日曜日 10:00~11:00 ※2・7・8月は休み 但し、7月最終の土日に暁天講座 |
志納金 | 参加者は無料 |
場所 | 友雲庵 ※天龍寺坐禅会の終了後、引き続き |
写 経
開催日 | 随時 受付:9:00~14:30 終了:16:30 ※事前に電話にて予約・確認 |
志納金 | 1,000円(別途、参拝料800円が必要) ※写経道具不要 |
場所 | 多宝殿 |
坐禅研修会
天龍寺(TEL:075-881-1235)までお問い合わせください。
イラストマップ
Googleマップ
住所
〒616-8385 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
TEL/FAX
TEL:075-881-1235/FAX:075-864-2424
電車を利用の方
- 『嵐電嵐山駅』下車 徒歩1分
- 『JR嵯峨嵐山駅』下車 徒歩13分
- 『阪急嵐山駅』下車 徒歩15分
バスを利用の方
- 市バス(11、28、93番) 『嵐山天龍寺前』下車 徒歩1分
- 京都バス(61、72、83番) 『嵐電嵐山駅前』下車 徒歩1分
駐車場 (予約不可 先着順)
料金
乗用車 | 1回 1,000円 | |
バス | 1時間 1,000円(以後30分毎 500円) | |
タクシー | 2時間 500円 |
収容台数
自家用車:100台
庭園
参拝時間
8:30~17:00(受付終了16:50)
参拝料金
高校生以上 | 500円 |
小中学生 | 300円 |
未就学児 | 無料 |
本堂+庭園
参拝時間
8:30~16:45(受付終了16:30)
参拝料金
高校生以上 | 800円 |
小中学生 | 300円 |
未就学児 | 無料 |
法堂『雲龍図』特別公開
参拝時間
8:30~16:30(受付終了16:20)
参拝料金
- 小学生以上の方500円(上記庭園・本堂の参拝料金とは別)
※法堂参拝受付は法堂の西側にあります
※土曜日・日曜日・祝日のみ公開(春夏秋は毎日公開期間あり)
※雲龍図(法堂)参拝休止日:2023年12月31日~2024年1月2日など
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これらの記事は、2023京都SKYシニア大学『京都見聞コース』の資料を参考に記事を掲載しています。